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前回は、「ローカル幹部の給与設計~見落とされがちな報酬戦略の空白地帯~」というテーマを整理しました。まだお読みでない方、また読み返したい方はこちらからどうぞ。
「給与を上げる=コスト」の感覚は、なぜ生まれるか
「給与を上げましょう」という提案を持ち込んだとき、経営層や本社の反応が慎重になりがちなのは、人件費の増加が即座に損益へ反映されるためです。しかし、その慎重さの裏側で見落とされがちなものがあります。人が辞めることのコストです。毎月確実に計上される人件費の増加と、発生するまで帳簿に現れない離職コストは、見え方が根本的に非対称です。この非対称性こそが、人件費の議論を「コスト増加への懸念」だけで終わらせやすくする構造的な要因のひとつです。
「人的資本経営」重視の潮流が、株式市場で加速
近年、「人的資本経営」というキーワードを耳にする機会が増えてきました。人材を「コスト」ではなく「資本」として捉え、その価値を高めることを経営の中心に置くという考え方です。
この流れと連動して、人的資本への取り組みをどのような指標で測定・報告すべきかを定めた国際規格としてISO30414が2018年12月に初版が発行されました。ESG投資(環境・社会・ガバナンス)の拡大や非財務情報を重視する株式市場の要請を背景に、米国、欧州、日本など、主要な株式市場で上場企業に人的資本の開示を求める動きが相次いで制度化されています。
ISO30414はそのような人的資本の情報開示の実務において参照されるガイドラインとして、採用・離職・生産性・ダイバーシティなど幅広い領域にわたる具体的な人的資本に対する取り組みの測定指標を定義しています。
ひとり離職すると、実際にいくらかかるか
そんなISO30414が定義する指標のなかでもとりわけ個性的で注目に値するのが、「離職に伴うコスト(Workforce Turnover Costs)」という指標です。離職に際して生じる費用や機会損失額を測定することを目的として定義されており、その算出式は次のように構成されています。
| 離職に伴うコスト(Workforce Turnover Costs) = 1人当たり採用費 x 自発的離職者数 + 1人当たり教育費 x 自発的離職者数 + 離職者の業務を補う残業費・手続き費等 + 1人当たり平均日額売上 x 自発的離職者数 x 採用までの平均日数 - 従業員1日当たり給与・福利厚生費 x 自発的離職者数 x 採用までの平均日数 |
採用・教育といった直接費に加え、欠員期間中に失われる機会損失まで含めて捉えるべきとしている点が特徴です。なお、欠員期間中は該当者への給与・福利厚生費の支払いが発生しないため、その節約分は差し引く構造になっています。
仮に、この式に基づいて、とあるベトナム人スタッフ職(月給20百万VND)を例に離職コストを試算すると、以下のようになります。
【試算の前提】
- 月給:20百万VND
- 月間労働日数:22日
- 時給:20百万VND ÷(22日×8時間)≒ 113,600 VND
- 欠員期間:1カ月
- 平日残業単価:113,600 × 150% ≒ 170,400 VND/時、残業2時間/日を20日間
- 1人当たり平均日額売上:600百万/年 ÷(22日×12ヶ月)≒ 2.27百万VND/日
- 1日当たり給与・福利厚生費:20百万 ÷ 22日 ≒ 0.91百万VND + 雇用主負担SHUI等(約21.5%)0.19百万VND = 約1.10百万VND/日
- 教育費:OJT担当の先輩社員(月給25百万VND)が試用期間2ヶ月間の業務時間の25%をOJTに充てると仮定 → 25百万VND × 25% × 2ヶ月 ≒ 12.5百万VND
| 項目 | 金額 |
| ① 採用費(年収 × 20〜25%) | 52 〜 65 百万 VND |
| ② 教育費(試用期間2ヶ月のOJT等) | 約12 〜 13 百万 VND |
| ③ 業務補填残業費(残業:2時間/日 × 20日) | 約7 百万 VND |
| ④ 欠員期間中の機会損失(2.27百万VND × 22日) | 約50 百万 VND |
| ⑤ 差し引き:欠員期間中の給与・福利厚生費節約 (1.10百万VND × 22日) |
△ 約24 百万 VND |
| 合計 | 約97 〜 111 百万 VND (月給の約5 〜 5.5ヶ月相当) |
※上記試算はあくまで目安です。「1人当たり平均日額売上」「残業時間数」「OJT担当者の給与水準」等、自社の実態に合わせた数値に前提を置き換えて各自試算してください。
「給与引き上げコスト」と「離職コスト」を並べると
同じポストの月給水準を仮に3百万VND引き上げた場合の年間追加コストは39百万VND(×13ヶ月)。一方で、1名の離職が発生した場合に見込まれるコストは約97〜111百万VNDとした場合、この差は数字として並べてみると想像以上に大きく見えます。
もちろん、給与を引き上げれば必ず定着するというわけではなく、離職リスクは給与だけで決まるものではありません。また、ベトナムでは一度引き上げた給与は本人の同意なく引き下げることが難しく、給与水準の改善は継続的なコスト増を意味します。一方、離職コストは補充が1回で完結すれば単発のコストであるという性質の違いはあります。ただし、2〜3年以内に再離職するループが繰り返されると、累積コストは逆転することがあります。 それゆえ、「給与競争力が市場水準を大きく下回っている」という状態が続く場合には、こうした性質の違いを念頭に置きつつも、定着・採用コストとの比較で給与水準改善の投資対効果を試算してみることは、意思決定時の1つの参照情報として有効です。
なお、すべての離職が「防ぐべきコスト」というわけではありません。より高い能力や新しい視点を持つ人材との入れ替えが、組織の競争力強化や将来の事業ニーズへの対応につながるケースもあります。ここで論じているコスト比較は、あくまで本来であれば定着してほしかった人材が不本意にも離職してしまうケースを念頭に置いています。
人件費を「投資」として捉え直すとは
「投資」という言葉を使うとき、問うべきは「何に対するリターンか」です。人件費におけるリターンの軸を整理すると、主に以下の4つが考えられます。
- ① 定着率の向上(離職コストの回避)
給与競争力を高めることで離職を防げれば、前述の離職コストの回避がそのまま投資対効果として換算されます。
- ② 採用競争力の強化
市場に対して魅力的な給与水準を提示できれば、より質の高い候補者を引きつけやすくなり、採用スピードの改善や入社後の早期離職リスクの低減にもつながります。採用の質が上がることは、その後の教育費や定着率にも好影響をもたらします。
- ③ 育成投資の回収
入社後のOJTや研修にかけたコストは、在籍が長くなるほど回収されていきます。逆に、育成途中で離職が発生すれば投資が未回収のまま終わり、次の採用・育成でコストがリセットされます。定着率の改善は、育成投資の回収効率を直接高めます。
- ④ 在籍中のパフォーマンス・コミットメント
処遇への不満が高い状態では、在籍を続けながらもパフォーマンスやエンゲージメントが低下するリスクがあります。「辞めないが本気でもない」状態のコストは定量化しにくいですが、組織全体の生産性に対する影響は無視できません。
経営層・本社への伝え方
給与水準の改善の必要性を本社や経営層に伝える際、「給与を引き上げてほしい」という要請だけでは動きにくいことがあります。伝え方のポイントは、「何を防ぐための投資か」を数字で組み立てることです。
- 「現在の給与水準は市場のP25相当である」(市場データによる客観的な位置づけ)
- 「P50水準に引き上げた場合の年間追加コストはXX百万VND」(投資額の明示)
- 「このポストで離職が1件発生した場合のコスト試算はYY百万VND」(離職コストを回避する投資対効果の提示)
ISO30414のような国際規格が離職コストの測定指標を標準化しようとしている背景には、こうした「見えにくいコスト」を可視化し、人材への投資を経営判断の俎上に乗せるという意図があります。人事課題を「投資対効果の問題」として経営言語で語る際の枠組みとして、こうしたアプローチを活用することもひとつの選択肢と言えるでしょう。
最新のベトナム給与相場をデータで知るために、ぜひ給与調査にご参加ください。
人件費を「投資」として経営陣や本社に語るためには、まず「自社の給与水準が市場のどの位置にあるか」を把握することが出発点になります。ICONICが実施するベトナム給与調査2026は、幅広い業種・職種の実支給データをベトナム全土から収集しており、自社の給与水準を市場と客観的に比較するためのデータとしてご活用いただけます。参加企業はサマリーデータを無料で閲覧可能です。ぜひご参加をご検討ください。
📍次回予告(第8回)
給与の見せ方を、戦略的に考える ~ 給与の透明性(Pay Transparency)という視点 ~
次回は、給与の透明性(Pay Transparency)をテーマに取り上げます。ベトナムでは、好むと好まざるとにかかわらず、社員間で給与情報が非公式に共有されている、と感じたことのある方は多いのではないでしょうか。「開示しない」方針をとっていても実質的な透明性がすでに高い場合、企業として給与情報をどこまで公式に開示すべきか、どこまでを非開示にすべきか。欧米社会を中心に広がるPay Transparencyの世界的な潮流も紹介しつつ、ベトナムの現場に即した給与の透明性のあり方を考えます。