2026-07-10

第9回|賃金管理のプロが推奨する、昇給案稟議資料の作り方

前回は、「給与の見せ方を、戦略的に考える~Pay Transparency(給与の透明性)という視点~」というテーマを整理しました。まだお読みでない方、また読み返したい方はこちらからどうぞ。


「市場が上がっているから上げたい」では、稟議は通らない

給与水準の引き上げを検討する際、人事担当者が最初にぶつかる壁は、多くの場合「本社への説明」あるいは「社内経営会議での承認」です。現場感覚として「このままでは採用・定着が難しい」とわかっていても、それを意思決定者に納得してもらうのは容易ではありません。

稟議の説得力が弱くなりがちなのは、「市場全体の賃金が上昇しているため、当社も引き上げが必要です」という説明にとどまるケースです。外部市場の動向への追従を理由とするだけでは、自社として報酬をどう設計したいのかという意思が見えません

意思決定者が本当に知りたいのは、「なぜこの職種・職層を引き上げるのか」「引き上げない職種・職層との優先順位の判断はどうなっているのか」という、自社の報酬方針としての論拠と、メリハリのついた昇給予算配分の提案です。市場データはその論拠を裏付けるものであり、市場動向そのものが理由になるわけではありません。


昇給案稟議の前に整理すべき「3つの問い」

説得力ある稟議資料を作るにあたって、まず以下の3つの問いに答えを用意することから始めましょう。

① 自社の給与水準は、市場のどの位置にあるか

「市場より低い」という主張は、根拠なしには通りません。自社の実支給額を市場データと対比し、職種・等級ごとに「どのパーセンタイルに位置しているか」を客観的に示す必要があります。市場の中央値(P50)を下回っているのか、あるいは下位25パーセンタイル(P25)にまで落ち込んでいるのか。その差によって、問題の深刻度と必要な対応のスピードが変わります。

② 現状を維持した場合、何が起きるか

意思決定者の心が最も動くのは、「引き上げない場合のリスク」が具体的に見えたときです。本連載第7回の記事でご紹介した離職コストの試算を活用すれば、「1名の中核人材が離職した場合の直接・間接コストが月給の何ヶ月分相当になるのか」という数字を根拠として提示できます。「採用・定着が難しくなる」という定性的な表現を、金額に置き換えて語ることが、稟議の説得力を大きく高めます。

③ どの程度の給与水準の調整が合理的か

「なるべく上げたい」という要望ではなく、「市場でどの程度の給与水準を目指すか」という目標設定と、自社の事業戦略上の優先度を組み合わせることが重要です。

事業戦略上の重要度の観点から、現状維持が合理的と判断されるポストについては、市場との乖離があっても据え置きとする選択もあります。逆に、事業推進の要となる職種・職層については、多少コストをかけてでも競争力ある水準を維持することが戦略的に合理的です。

事業を推進するという目的から逆算し、投資対象を絞り込んだうえで最適かつ現実的な予算案に落とし込むことが、人事に求められているのです。


「パーセンタイル」と「コンパレシオ」を使いこなす

市場データを昇給案稟議に活用するうえで、最低限押さえておきたい指標が2つあります。

パーセンタイル(百分位数)とは

市場に存在する給与データを低い順に並べたときの位置を示すものです。P50(中央値)は市場の真ん中、P75は上位25%の水準を意味します。自社の給与水準がP25を下回っている場合、市場の75%の企業より低い給与を払っていることになり、採用・定着上の競争劣位が生じやすい状態です。

コンパレシオ(Compa-ratio)とは

自社の実支給額を市場中央値で割った比率です(実支給額 ÷ 市場P50 × 100)。100%であれば市場中央値と一致、80%であれば市場より20%低い水準を意味します。職種・等級ごとにコンパレシオを算出して一覧化することで、どこに問題が集中しているかが一目で可視化できます。

これらの指標を用いて「現状の自社の立ち位置」を示したうえで、「目標とする給与水準に向けた調整額」を試算する流れが、データを軸とした昇給案稟議の基本的な組み立て方です。


昇給案稟議の構成

上記の3つの問いとデータを整理できれば、昇給案稟議資料の構成は以下の流れで組み立てることができます。

  • 1. 現状分析

市場対比で自社の給与水準の現状を可視化。パーセンタイル値やコンパレシオで職種・等級別に示す。

  • 2. リスクの提示

現状維持した場合に想定される離職・採用難・生産性低下を、可能な限りコストに換算して示す。先述の離職コストの算出式なども参考にする。

  • 3. 昇給案の予算試算

目標とすべき給与水準を設定し、対象職種・等級と必要な引き上げ幅を明示する。対象者数・現給与・引き上げ額をもとに年間の追加予算を試算する。

  • 4. 費用対効果の検証

上記2で示したリスクが発現した場合のコストと、上記3で算出した昇給予算を並べて比較する。リスク発現時のコストが昇給額を上回るケースがあることも示すことで、昇給を投資として捉え直す視点が生まれ、バランスのとれた議論ができる土台が整います。


意思決定者の「心が動く」伝え方

昇給案稟議において意思決定者の理解を得るためには、どの論点をどの順序で示すかを意識的に組み立てることが重要です。予算の増加という側面が先に見えると、議論がコスト管理の文脈から始まりやすくなります。そこに、引き上げなかった場合に生じる離職コストや事業への影響を定量的に並べることで、昇給を単なる「支出」ではなく「リスクヘッジのための投資」として位置づける論拠が整います。

加えて、昇給には社員の動機づけという観点からも重要な意味があります。自らの貢献が報酬に正当に反映されたと感じることは、翌期に向けて自発的に高い成果を目指す前向きな動機づけとなります。一方、報われていないという感覚が積み重なれば、静かなデモチベーションとして蓄積し、やがてエンゲージメントの低下や離職につながります。このように、給与は「組織のパフォーマンスを引き出す経営上の重要な手段」であるという側面もあります

こうした多角的な視点を稟議に盛り込むことで、昇給が人材マネジメント上の重要な経営判断として意思決定者に受け取られやすくなります。


最新のベトナム給与相場をデータで知るために、ぜひ給与調査にご参加ください。

昇給案稟議の説得力は、使用する市場データの信頼性に直結します。ICONICが実施するベトナム給与調査2026は、幅広い業種・職種の実支給データをベトナム全土から収集しており、職種・等級・パーセンタイル別の比較が可能です。「市場データに基づく客観的な根拠」として、稟議資料にそのままご活用いただけます。参加企業はサマリーデータを無料で閲覧可能です。ぜひご参加をご検討ください。 

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📍次回予告(最終回)

給与相場データの「防ぐ」機能と「攻める」機能
~給与相場データを人事管理に活かす~

この連載で取り上げてきた人事上の判断はいずれも、信頼できる給与相場データを手元に持っているかどうかで、判断の質と速度が大きく変わります。

最終回では、給与相場データが果たす役割を2つの観点から整理します。ひとつは「防ぐ」機能。根拠のない水準設定や後手の対応から生じるリスクをいかに回避できるか。もうひとつは「攻める」機能。給与相場データを起点に、採用競争力の強化や戦略的な人件費配分、意思決定スピードの向上といった、能動的な賃金管理をどう組み立てるか。

連載全体の論点を振り返りながら、ベトナムにおける報酬戦略の実践に向けた総括をお届けします。

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横浜国立大学卒業後、経営コンサルティング企業で中小企業の新規事業支援を担当。 2006年よりJICAウガンダで職業訓練校を調査し、2007年にベトナムの三井住友銀行ホーチミン支店で法人営業を担当。 2010年からICONICベトナム法人にて組織人事コンサルティング事業の立ち上げに従事し、支援した人事制度構築プロジェクトは150件超。 2023年、ICONICベトナム法人のGeneral Directorに就任。賃金管理士。 ISO30414リードコンサルタント/アセッサー。コーネル大学ILRスクール/報酬・福利厚生プログラム修了。

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