関税の波とチャイナシフト:ベトナム経済の足元を読む
2025年、アメリカの関税政策の見直しは、ベトナムの輸出産業に対して現実的な懸念を生みました。対米輸出依存度の高い繊維・縫製・電子機器・家具などのセクターでは、採用計画の一時凍結や設備投資の見直しに踏み切る企業も少なくありませんでした。
ただし、これまでのところ関税問題の影響は一時的・部分的なものにとどまっています。ベトナムが「チャイナシフトの受け皿」として持つ構造的な優位性(労働力の若さ、インフラ整備、対外開放の姿勢、地政学的な安全性など)はいずれも短期の政策変化で失われるものではありません。対越外国直接投資(FDI)の流入も底堅く推移し、2025年のGDP成長率も7%超と堅調な水準を保っています。こうした指標を見れば、ベトナム経済は堅調に推移していると言えそうです。
ただ、だからといって「ベトナムの労働市場も活況を呈している」という一言で人事の現場の実感を語ろうとすると、肌感としてはかなりの乖離が生じます。2026年のベトナム労働市場の特徴は、「業界によって、地域によって、職種によって、まったく異なる景色が広がっている」という点にあるからです。
製造業:増員意向は旺盛だが、南北で中身が異なる
ICONICが2026年3月に実施した調査に基づくベトナム要員計画予測レポート2026では、在ベトナム企業における業界・職種・地域別の増減員動向を今期と3年後までの時間軸で分析しています。製造業全体としては増員計画を持つ企業が優勢ですが、地域別に見るとその内訳は大きく異なります。
南部ベトナムでは、現場の人員確保を最優先課題とする企業が多く、生産オペレーター層への増員意向が特に強く表れています。一方、北部ベトナムでは、生産技術・研究開発・自動化エンジニアといった技術系人材への増員意向が鮮明で、チャイナシフトで流入する製造業の波に対応した技術系人材強化の方向性が読み取れます。どちらの地域でも製造業の人手不足感は継続しており、オペレーターからエンジニアまで人材確保競争は厳しい状況が続いています。
IT業界:需給の急速な逆転が起きている
かつてエンジニア不足が常態化していたIT業界では、状況が急速に変わっています。グローバルな大手テック企業のレイオフの波とAIコーディングツールの普及の影響はベトナムのIT市場にも着実に及んでいます。
同レポートのIT業界データによれば、ITコミュニケーター(IT専門の通訳・翻訳)は今年からすでに需要縮小が見込まれており、ソフトウェアエンジニアについても中期的には採用需要が落ち着く傾向にあるとみられています。1名採用のエンジニア求人に一日で数十〜百人規模の応募が集まるケースも報告されており、かつてとは異なる様相を呈してきています。一方、「技術×対人スキル」を要するブリッジSEやITプロジェクトマネージャーへの採用需要は足元では堅調を維持しており、少なくとも短期的にはAIの影響が比較的出にくい職種とみられています。
ホワイトカラーの二極化:職種ごとの温度差が広がっている
ホワイトカラー層の職種間格差は、今後さらに鮮明になっていきそうです。
業界を問わず、営業・事業開発職は短期から中期にかけて採用意向が軒並み上昇しており、特に商社では長期にわたって強い増員意向が続く見通しです。純粋な営業職にとどまらず、アフターサービスや技術サポートを通じて顧客接点を持つサービスエンジニア職も同様に底堅い需要が続いています。顧客との関係構築や現場判断が求められる役割は、AIには代替しにくい領域として、引き続き採用競争が続く見通しです。
エンジニアリング系職種の需要も、業界によっては局地的に大きく盛り上がっています。CADセンター業界では、日本市場の人材不足を背景としたオフショア需要の高まりから、回答企業のほぼすべてがCAD/BIMオペレーターの増員を短期・中期にわたって計画しており、業界全体で採用競争が激化する見通しです。 建設・不動産業界でも、プロジェクト管理者や建設サイトエンジニアへの採用意向が強く、市況回復への期待感を背景に中期的に増員傾向が続くと見られています。
一方で、静かな変化が起きているのがバックオフィス系職種です。経理・総務・営業事務といった職種については、AIツールの導入を前提とした業務効率化が進み、人員の再編成を検討し始めている企業がちらほら見え始めています。同レポートによれば、全業界を通じてベトナム拠点においてAI代替リスクが最も高いと認識されている職種は通訳・翻訳(回答者の29.3%が挙げた)で、財務・経理(14.6%)、営業事務(8.9%)がそれに続きます。特に北部では財務・経理のAI代替リスク認識が南部を大きく上回っており、バックオフィス再編の方向性が北部企業を中心により強く意識されていることがうかがえます。
「ホワイトカラー」という括り方ではなく、職種ごとの採用温度差を正確に把握することが、給与設計の精度に直結します。
労働市場の解像度が、人事判断の質を決める
これら一連の変化が示しているのは、「ベトナムの労働市場は好調か不調か」という問い自体が、実態を正しく捉えられていないということです。
北部工業地帯の自動化エンジニアと、ホーチミンのITコミュニケーターと、ダナンのCADオペレーターは、まったく異なる労働市場の中にいます。同じ「ベトナム労働市場の相場」という言葉で括ることには、根本的な無理があります。
今期の昇給検討、採用予算の設定、給与テーブルの見直しといった判断を下す際、「どの職種で」「どの職層で」「どの地域で」人事管理に取り組んでいるのかを起点に考えられているでしょうか。その問いに答えられないまま給与の意思決定を行うことは、判断の精度を大きく損なうことにつながりかねません。だからこそ、労働市場を解像度高く見つめることが、2026年の報酬戦略の出発点となるのです。
次回以降の連載では、ベトナムにおける最適な人事判断のために押さえておくべき報酬戦略の論点を、実務の視点から掘り下げていきます。
最新のベトナム給与相場をデータで知るために、ぜひ給与調査にご参加ください
弊社が主催するベトナム給与調査2026は今年で17年目を迎える定点観測調査で、昨年は過去最多の392社が参加したベトナム最大級の給与調査です。本連載で触れたような市場の二極化や地域差を自社の給与判断に活かしたい方に、具体的な根拠データとして幅広くご活用いただいています。参加企業には調査結果の閲覧をはじめ、各種特典をご用意しています。
📍次回予告(第2回)
「新旧社員の給与格差が縮まるとき:「給与圧縮」という賃金管理の重要論点」
採用市場が変化するほど、新規採用者と在職者の給与の差が縮まり、社内の賃金バランスが崩れていく。場合によっては逆転するケースも。多くの企業が頭を悩ませがちなこの現象、実はグローバルの賃金管理の世界では「Pay Compression(給与圧縮)」と名前がついているほど広く認識された、どの会社でも陥りやすい課題です。そして、その向き合い方にも、基本的なセオリーがあります。次回は、この論点を掘り下げていきます。次回もどうぞお楽しみに!